The Room of Requirement

必要な人が必要な時に必要なことを

我々は失敗作である:『人体 失敗の進化史』

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『人体 失敗の進化史』光文社新書

著者:遠藤秀紀

 

人体の設計図はその場凌ぎの設計変更の塊である

獣医学博士の著者が、心臓や骨、耳、臍、四肢などといった人体の各部分がどのような来歴を持つのかを紹介しながら、進化とはその場凌ぎの突飛な設計変更の数億年規模での蓄積であることを示します。現代人が悩まされる腰痛や肩こりの進化史的な原因も説明されます。筆者の語りがとても上手で、生物の進化を追いかける数億年の時間を駆け巡る旅へと読者を引き込んでくれるようです。

 

本書の概要

第1章 身体の設計図

太鼓の哺乳類は腕を胴体に接続する骨として肩甲骨と烏口骨を持っていましたが、鳥類は烏口骨を発達させ肩甲骨を退化させたのに対し、哺乳類は肩甲骨を発達させ烏口骨を消滅させました。

心臓の原型はナメクジウオという原始生物まで遡り、血管壁の広い範囲に心臓の筋肉の細胞がバラバラに分布するという形であり、さらに遡ればホヤの体内でパクパクと動いて体液を行き先を定めずに循環させる細胞でした。

機械の設計では人間の目的に合わせて白紙から設計されるのに対して、生物は祖先の設計図を借りてきて変更を加えるという形でしか設計を行えないのです。

第2章 設計変更の繰り返し

最後に出来上がる形の役割と、その形を生み出した時点での機能が明確に異なっている場合、全適応と呼びます。

身体の支持、運動の起点、外界からの防御といった役割を果たす骨は、原始的な魚が生み出した、海中でリン酸カルシウムを体内に蓄積するシステムが原型となっています。

槌・砧・鐙からなる耳小骨は、鼓膜の振動をテコの原理で増幅し内耳に伝えますが、これは顎関節の一部を元として作られました。また、顎は鰓を元に作られたと考えられています。

陸上での移動に不可欠な手足は、海中での自由な移動を目的とした肉厚の鰓が発達したものです。

臍は胎生の動物だけでなく鳥類や爬虫類にもあります。臍はもともと卵の中で卵黄と胎児を結びつけるものでしたが、卵生から胎生に移行した生物が、胎児と母親の胎盤を結びつけるものに改良しました。

鰓呼吸をしていた魚が浮き袋を応用して肺を作り出し、それに伴って肺に全ての血流を送り込むために心臓が右心と左心を持つ構造に変化しました。

鳥は空を飛ぶために、肩から先の骨を伸ばし、皮膚の一部を羽毛に変え、骨の内部を空洞化し、ヒトの肋骨下から尻までの骨に当たる骨を全て一つにまとめ軽量化を測りました。

第3章 前代未聞の改造品

ヒトは二足歩行のために、足の平にアーチ構造を持たせて二箇所で体重を支え、強靭なアキレス腱を用意して地面を強く蹴ります。重力がかかる方向が90度変わった内臓を支えるために骨盤は幅広くなり、また四足歩行の時とは動かし方が大きく変わった後脚を動かすために尻が大きく発達しました。

ヒトの指は親指と他の4本の指が向かい合っている、いわゆる母指対向性を持っており、これが驚異的に器用な手を実現しました。

ヒトの脳の桁外れの大きさは道具の使用や製作といった手先の作業によって加速度的に実現されました。

第4章 行き詰まった失敗作

ヒトは上体を垂直にして二足歩行を始めたために、心臓に大きな負担をかけることになりました。血管が上下に走るため、手足の先の動脈では高血圧、頭では低血圧になり、様々な姿勢で様々な動作を滞りなく行うために心臓と血管を制御するシステムが必要になります。冷え性の原因はここにあります。

水平に保たれていた背骨を垂直に立てたために、椎間板が圧力で押し出され神経を刺激する椎間板ヘルニアも二足歩行の弊害です。

 

最大の失敗作

ヒトに知性を与え、高度な文明を築いくに至らしめたのは脳で、他の動物と比べた時の我々のアイデンティティは脳にあると言えるでしょう。しかし、筆者は、自身を破滅へ導きうる核開発や地球環境の不可逆的な破壊を指摘した上で、逆説的に、次のように語ります。

 

たかが500万年で、ここまで自分たちが暮らす土台を揺るがせた“乱暴者”は、やはりヒト科ただ一群である。何千万年、何億年と生き続ける生物群がいる中で、人類が短期間に見せた賢いが故の愚かさは、このグループが動物としては明らかな失敗作であることを意味していると言えるだろう。

ヒト科全体を批判するのがためらわれるとしても、明らかにホモ・サピエンスは成功したとは思われない。この二足歩行の動物は、どちらかといえば、化け物の類だ。50キロの身体に1400ccの脳を繋げてしまった悲しいモンスターなのである。

 

 

そして筆者はヒトのこれからの設計変更の未来について、次の設計変更がこれ以上なされないうちに、人類は終焉を迎えるという哀しい未来予測を立てます。

 

まとめ

ヒトの設計の最大の失敗は脳であるという筆者の指摘に驚きましたが、深く納得させられました。終焉へと突き進む人類が繁栄の未来へと軌道を修正するために残されたできることは、設計図の変更ではなく、人類自身が自らの行動を変えることであるようです。

 

真理を追究する6人の偉人:『知の逆転』

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『知の逆転』NHK出版新書

著者:ジャレド・ダイアモンドノーム・チョムスキーオリバー・サックスマービン・ミンスキー、トム・レイトン、ジェームズ・ワトソン

 

どこまでも真実を追い求める巨人たち

生物学、言語学、神経学、コンピュータ科学、応用数学分子生物学の各分野の代表者として、専門分野にとどまらない分野横断の知性を駆使し、人類の先頭を切って真実に向かって走り続けている6人の巨人たちが吉成氏のインタビューに答えます。

 

本書の概要

第1章 文明の崩壊 ジャレド・ダイアモンド

専門の生理学や地理学に加え、考古学や人類学、鳥類学にも精通するオリバー・サックスは『銃・病原菌・鉄』の著者として有名です。

・『銃・病原菌・鉄』から『文明崩壊』へ

西欧の成功はいくつかの幸運な地理的条件の重なりの帰結であり、地理的要素は今後も重要な役割を果たしていくと考えられる。紛争をなくすためには国家間格差を小さくする必要がある。

・第三のチンパンジー

人類が遺伝的差異をほとんど持たないチンパンジーと異なる道を歩むことになった要因としては、直立歩行・脳の肥大化・言語の獲得などが考えられる。

・セックスはなぜ楽しいか?

セックスには、女が子育て期間中に男を引きつけておくための糊のような役割があるのではないかと考えられる。男はわずかな時間で遺伝子を残すチャンスを得られるから不倫をするのに対し、女は不幸な結婚を背景として新たな関係を求めて不倫をすると予想できる。

・宗教について、人生の意味について

宗教がもたらす恩恵として、第一に宗教は人々に強力な動機を与え強大な政治力となりうることがある。世界に様々な説明を与えるという観点で科学は宗教に取って代わることができる。人生は、ただ存在しているだけで意味というものは持ち合わせず、したがって「人生の意味」をとうことに意味はない。

・推薦図書

ヘンリー・デイビッド・ソロー『ウォールデンー森の生活』

トゥキディデスペロポネソス戦争史』

アルベルト・シュバイツァーヨハン・セバスチャン・バッハ

第2章 帝国主義の終わり ノーム・チョムスキー

ノーム・チョムスキーは、プラトンフロイト、聖書と並んで、最も引用回数の多い著者であり、「生きている人の中でおそらく最も重要な知識人」(ニューヨーク・タイムズ)と形容されます。

・資本主義の将来は?

金融部門を見ればわかるように、市場原理だけでは破綻は避けられない。政府の介入は不可避である。

・権力とプロパンガンダ

核兵器が存在する限り、いつか必ず核戦争が起きる。アメリカが考えているのは「核抑止」ではなく「核支配」である。非核武装地帯の実現を阻んでいるのはアメリカである。民主主義がその限界を露呈し始めているのは人類にとって大きな問題であるかもしれない。

・科学は宗教に変わりうるか

自分は無宗教であるが、宗教にはポジティブな面を持つものもある。何を信じるかは個人の自由である。科学は人生に対する問いを提供できていない。

・理想的な教育とは?

理想とする教育とは、子供達が持っている創造性と創作力をのばし、自由社会で昨日する市民となって、仕事や人生においても創造的で創作的であり、独立した存在になるよう手助けすることである。外から押し付けられる勉強、試験のための勉強などは無意味だ。

・言語が先か音楽が先か

音楽、数学的能力、アートなどは言語能力の副産物である可能性が高い。

第3章 柔らかな脳 オリバー・サックス

オリバー・サックスは脳神経科医として診療を行う傍、精力的に作家活動を行なっており、代表作には『妻を帽子とまちがえた男』などがある。

・音楽の力

人の神経系は音楽のビートに反応したり、音楽が認知症の人の記憶を呼び覚ましたり、音楽は人間に対して特別な力を持つ。

・人間に特有の能力について

「文法」や「読む能力」は人間に特有のものである。

第4章 なぜ福島にロボットを送れなかったか マービン・ミンスキー

マービン・ミンスキー人工知能分野の開拓者であり、アーサー・C・クラークの『2001年の宇宙の旅』映画版のアドバイザーとしてもよく知られている。

人工知能分野の「失われた30年」

数十年間、見栄えがいいロボットを作ることに専念し、リモコン操作でドアを開けるなどの子供でもできることをするロボットの開発がなされなかったのは残念である。現在コンピュータの知能を上げる研究はもっぱら統計的手法によるものだが、別の方法を探らなければならない。

・社会は集合知能へと向かうのか

集合の知能が個人の知能を上回ることがあるが、その逆の場合もある。科学の英知は、いつも個人知能によってもたらされた。

第5章 サイバー戦線異常あり トム・レイトン

トム・レイトンは数学者でありながら、自らの理論を引っさげてインターネット戦場に乗り込んでいき、設立した会社を年商10億ドルを超える会社に成長させました。

・インターネット社会のインフラを支える会社

将来的には全ての機器が携帯型に移行すると予想する。この場合、情報流通量の限界とサイバー犯罪が大問題になる。サイバー攻撃はより高度化し、組織化しており、戦争になればインターネットは最大の標的になる。

・大学の研究と企業の新たな関係

論理的に考え事実を突き詰める数学的訓練は、ビジネス上の決断を下すのに役立っている。アカマイ社はMITとの結びつきが強く、研究に重点を置いているため、ビジネス分野の頂上付近では向かうところ敵なしという状況を作り上げられている。

第6章 人間はロジックより感情に支配される ジェームズ・ワトソン

ジェームズ・ワトソンは、弱冠25歳でDNA二重螺旋構造の解明に成功したことで知られる分子生物学者です。

・科学研究の将来

生物科学の3つの重要研究分野は、第一に脳の発達と機能について、第二に老化にどう対処するかについて、第三にどうやって肥満化に歯止めをかけるかについてである。癌はすでに解決されつつあり、精神疾患はあまりにも複雑である。

・教育の基本は「事実に基づいて考える」ということ

多くの人が深く考えることなく、単にそれができるからという理由だけで行動している。適切な問題を見つけるには一流の人たちのいる場所に行くのがいい。若い頃は先生が適切な場所に送り出してくれるかどうかが鍵であるが、ある時から自分で判断しなければならなくなる。

 

まとめ

将来、教科書に名を連ねることになるであろう現代の巨人たちがそれぞれの専門分野の現在について語っており、とても刺激的でした。各々の人物とその業績についてもっと詳しく知りたいと感じました。

齋藤先生の読書術:『大人のための読書の全技術』

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『大人のための読書の全技術』中経出版

著者:齋藤孝

 

読書の達人が教える読書のすべての技術

30冊ほどの本を同時並行に読み、多い日には10冊以上の本を読破するという齋藤先生が、自らが実践している読書に関わるあらゆる技術を惜しみなく伝授してくれます。

 

本書の概要

序章 社会人にこそ、読書が必要な理由

読書の効用が列挙されます。

・読書によって、先人たちから自分自身をデザインし、ブランド化していく方法を学ぶとともに、そのモチベーションを得る。

・テレビやインターネットと比してより能動的で集中力を必要とする読書は思考力を鍛え会話における言葉の意味の含有率を高められる。

・読書によって先人たちの体験を追体験することで知性の経験値を上げ、ストレスに負けない精神力が身につく。

・読書によって知識や意識のキャパシティを大きくし、脳味噌をタフにして常に意識を総動員できるようになる。

・読書を習慣化することで、常に進化し続ける自分になれる。

・自己刷新の力を身につけ、それを仕事に生かすことができる。

・自分の頭で全てを考えようとするのではなく、読書によって先人たちの思考をなぞることができる。

第1章 読書のライフスタイルを確立する

読書のライフスタイルを確立する方法が列挙されます。

・「電車の中では必ず文庫本を読む」「1日のうち1時間は必ずカフェに本を読む」「誰かと待ち合わせをするなら必ず本屋にする」など、自分のルールを作る。

・本を捨てたり売ったりしてしまわず、部屋に本棚を設置し本と共に暮らす。

・本について語り合える友人を持つ。ネット上でのレビューなどのやりとりでも良い。

・尊敬する人の本や自分の背中を後押ししてくれる本、古典を手元に置く。

・情報・知識を取り出すことを目的とする「役に立つ読書」と、世界に没入することを目的とする「快楽としての読書」を区別し、速読と精読を使い分ける。

第2章 読書の量を増やす−速読の全技術

現代では速読と精読の両方の重要性が増していて、それを上手に使い分けることが重要になっていると主張した上で、速読の技術を列挙します。

・読書量を増やす

読書量を増やす知識を積み重ねていくことが、楽で、速く、正確な読書に直結します。同じ分野の本を6〜7冊読めば、理解しなければならないことは2割ほどしか残らない。

・本を読む目的を設定する

「今読んでいる本の内容を、誰かに説明するのだ」と決めることで、本の内容を理解し整理しながら読むことができる。実際に誰かに説明すればより効果的。

・一冊の本を読み終える締め切りを設定する

「この新書を3時間で読む」のように締め切りを設定し、慣れてくれば締め切りまでの時間を短くしていく。

・本をさばく

本を買ったら喫茶店に入って、一冊につき20分くらいかけて本の内容を人に話せるくらいに大まかに把握する。その本を読むモチベーションが最も高い時に中身を把握することに意味がある。

・逆算読書法

話の肝の部分が描かれることが多い3、4章や結論が書かれる終章を最初に読むことで全体の内容を効率よく正確に把握できることは多い。

・二割読書法

全体のうちの二割を正確に読み、内容を記憶する。どの部分を読むかを選ぶ能力は経験を重ねることで磨く。

・サーチライト方式

カバーの袖や要約などからキーワードを5、6個予想し、キーワードを拾いながら読む。

・同時並行読書

TPOに応じて多くの本を読み分け、10冊ほどを同時に読む。

第3章 読書の質を上げる−精読の全技術

・音読

音読によって本の内容を正確に理解すると共に身につけた知識や知恵を一生ものにできる。

・翻訳

まず翻訳本で内容を把握し、気に入った箇所だけでも原文にあたって音読し翻訳してみる。

三色ボールペン方式

客観的に最重要な部分に赤、客観的に重要な部分に青、主観として大切な部分に緑で丸をつけたり線を引いたりする。

・引用ベストスリー方式

好きな文章を三つ選んで引用して置き、会話の中で積極的にアウトプットするようにする。

第4章 読書の幅を広げる−本選びの全技術

・芋蔓式読書で、気に入った著者の本を続けて読んでいく。

・柱になって精神力を支えてくれる古典を何度も読む。

・古本も揃う図書館で買うべき本を見つける。

・ネット書店で手に入りにくい本を手に入れる。

第5章 読書を武器にする−アウトプットの全技術

・本に触れながら会話する習慣を身につけ、コミュニケーション能力を高める。

・読書でコメント力と質問力、雑談力を身につける。

・読書で知った新たな概念を活用する。

終章 社会人が読んでおくべき五〇冊リスト

 

まとめ

仕事の時と寝ている時以外はほとんど本を読んでいる齋藤先生の真似をするのは普通の人間にはなかなか難しいと思いますが、読書をする上で参考になる話がいくつも載っていました。また、先生が他の著書で主題テーマとして取り上げている話題も多く登場していたので、ぜひ読んでみたいと思いました。

超並列計算で革命を起こす:『量子コンピュータとは何か』

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量子コンピュータとは何か』ハヤカワ文庫

著者:ジョージ・ジョンソン

 

次世代コンピュータの原理と潜在能力を語る

量子的な現象を用いることで全ての計算を同時に行うことで計算回数を劇的に少なくできる量子コンピュータは今まさに開発が進んでいるテクノロジーで、注目を集めています。従来のコンピュータに対する量子コンピュータの性能は、火に対する原子力の能力の大きさに例えられるほどです。本書では量子コンピュータの原理とその潜在能力を数式を用いない形で紹介します。

 

本書の概要

序章 なぜ量子コンピュータは注目されているのか

本書の執筆当時(2004年)の最新のスーパーコンピュータ「Q」は1秒間に3兆回の演算を処理する性能を有していましたが、わずか64個の原子を用いた量子コンピュータに太刀打ちするのは単純計算で地球の表面積の5000倍の敷地が必要です。機密情報を守る暗号の堅牢性を担保している因数分解は、スーパーコンピュータを用いても計算には何十億年もかかりますが、量子コンピュータは計算時間を劇的に短縮します。

第1章 そもそもコンピュータとは何か 第2章 コンピュータの仕組み

現在のいかなるコンピュータの動作も、微小なスイッチのオン・オフでしかありません。従って原理的には棒と糸まきを組み合わせた装置で全く同じ動作を実現することが可能です。

第3章 量子の奇妙な振る舞いー「重ね合わせ」と「絡み合い」

ほとんどに人間には理解しがたい量子的振る舞いとして、「重ね合わせ」と「絡み合い」があります。

第4章 コンピュータの限界「因数分解」と量子コンピュータ

因数分解の問題の複雑さは桁数に対応して指数関数的に大きくなり、計算時間は最良のアルゴリズムを用いても「超多項式関数」によって増大するため、十分な桁数を持つ数の因数分解はスーパーコンピュータでは行えません。

第5章 難題を解決するショアのアルゴリズム 第6章 公開鍵暗号を破る

古典的コンピュータは1または0となるビットで記述されますが、量子コンピュータは0と1の重ね合わせとなることができるキュビットで記述されるため、複数の計算を同時に行うことができます。1994年にピーター・ショアは、因数分解を波の重ね合わせとして計算し、重ね合わせとして出力される計算結果から必要な答えをうまく抽出するアルゴリズムを発見したことで、因数分解において量子コンピュータがその能力を発揮できることがわかりました。

また、1996年にはロヴ・グローヴァーが、膨大な情報を高速で計算するアルゴリズムを発見しました。

第7章 実現に向けた挑戦 第8章 「重ね合わせ状態の崩壊」に立ち向かう

ショアやクローヴァーのアルゴリズムに代表されるようなソフトウェアの開発と共に、量子コンピュータ実現のためにはハードウェアの開発が必要です。すなわち、古典的コンピュータの万能素子NANDゲートに対応する量子コンピュータ制御NOTゲートの開発です。研究者たちはベリリウムイオンや光子、分子、電子など様々なものを使って制御NOTゲートを実現しようと思考錯誤しています。幾つものキュビットが計算に必要な時間の間、重ね合わせ状態を保持できるようにすることが難しいようです。

第9章 絶対堅牢な暗号「量子暗号」

RSA暗号量子コンピュータによって打ち破られる可能性があります。しかし、量子コンピュータの完成より前に量子暗号が実現されれば我々の機密情報は永久に絶対的に安全であることが保証されます。量子暗号は、原理的に、解読不可能なのです。

第10章 宇宙一の難問—タンパク質折りたたみ・巡回セールスマン・バグ検証

タンパク質が正しい三次元構造を取るために膨大な折りたたみ方から一つだけを選ばなくてはならないという「タンパク質折りたたみ問題」、幾つかの点を採最短で巡回する経路を探索する「巡回セールスマン問題」、ソフトウェアの膨大なコマンドの全ての組み合わせに対してバグが生じないか検証する「充足化問題」などは「NP完全」と呼ばれ、非決定論的に多項式時間で解けるが、決定論的には指数関数的時間でしか解けません。量子コンピュータNP完全という壁に風穴を開けられるかどうかは、科学の世界における最大の未解決問題の一つです。

 

ショアのアルゴリズム

ショアのアルゴリズムについて少し詳しく見ていくために、まずモジュロ計算によって15を因数分解することを考えてみます。

⑴まず、因数分解したい数(この例では15)より小さな数を一つ、適当に選びます(例えば7)。

⑵この数の1乗、2乗、3乗、…に対し因数分解したい数で割った余りを項とする数列を生成します(7=15*0+7, 49=15*3+4, 343=15*22+13, …により数列は7,4,13,1,7,4,13,1,…となります)。

⑶この数列の周期を調べます(この例では4)。

⑷はじめに選んだ適当な数の(周期/2)乗を計算します(この例では7*7=49)。周期が奇数になった場合は⑴に戻り、適当な数の選び方を変えます。

⑸⑷で計算した数の両隣の2つの数と、因数分解したい数の最大公約数を、ユークリッドの互除法などを用いて求めます(48と15の最大公約数は3、50と15の最大公約数は5)。

⑹⑸で得られた2つの数は因数分解したい数の約数になっています。

 

ショアのアルゴリズムではまず、スピンを持った原子の列を使って、⑵で何乗するか表す数1,2,3,…を表す状態を量子的に重ね合わせます。この原子列を「入力レジスタ」と呼びます。次に量子版のAND、OR、NOTゲートを使って累乗計算を行います。この時、全ての入力値は重ね合わされているので必要な計算は全て同時に行われます。この計算の答えも、スピンを持つ原子の列(出力レジスタ)の状態の重ね合わせとして出力されます。最後にすべきことはこの周期を知ることです。原子の列のスピンを測定すると、数列の中の一つへランダムに壊れます(例えば7)。入力レジスタと出力レジスタは互いに絡み合っているため、同時に入力レジスタも部分的に壊れます。すなわち、7を出力するような累乗数(1,5,9,13,…)だけを重ね合わせた状態へ変化します。この出力レジスタに対して量子的なフーリエ変換を施すことにより、周期を求めることができ、あとは単純な計算を行うことで約数を得るとこができます。

 

まとめ

量子コンピュータの概要を知りたくて本書を読みました。量子を使って計算を同時に行うという発想は割と昔からあったそうですが、ショアのアルゴリズムによって因数分解に対して量子コンピュータがその絶大な威力を発揮できるということが分かたことで注目を集めるようになったようです。量子コンピュータの実現のためにはハードウェア面の問題の解決が必要だそうなので、もしかしたら日本人研究者の活躍が期待できるかも知れないと思いました。

また、本書の巻末の解説を担当する竹内繁樹氏の著書『量子コンピュータ』(BLUE BACKS)では、竹内氏が研究者の立場から制御NOTゲートや量子フーリエ変換についてもう少し詳しく解説しており、本書と相補的な関係にあると竹内氏は言います。

5人の先達の慧眼:『人類の未来』

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『人類の未来』NHK出版新書

著者:ノーム・チョムスキーレイ・カーツワイル、マーティン・ウルフ、ビャルケ・インゲルス、フリーマン・ダイソン吉成真由美[インタビュー・編]

 2017年、今知りたいことを世界最高の知性たちが語る

ベストセラーとなった『知の逆転』の姉妹本です。トランプ政権、民主主義、AI、シンギュラリティ、EU、都市建築、環境問題、2017年に人類が直面する様々な問題と人類が手にしつつあるテクノロジーの未来について、5人の超一流の知性たちが吉成氏のインタビューに答えます。

 

本書の概要

第1章 トランプ政権と民主主義のゆくえ ノーム・チョムスキー

「世界一の知識人」と称されるノーム・チョムスキーは、もともと数学者でしたが、全ての言語に共通する普遍文法を提唱して言語学に革命をもたらし、ベテナム反戦運動を機に政治活動にも深く関与するようになった人物です。

・アメリカは衰退すれども世界一か?

アメリカは世界最強の国として他の追随を許さない状況ではあるが、アメリカの力のピークは70年前の1945年であり、その時から斜陽は始まっている。衰退の主たる原因は規制緩和政策や健康保険システムなどの国内政策である。

・トランプはアメリカをどこに導くのか?

デマゴーグ(煽動政治家)たちが取る常套手段であるスケープゴートを立てて不満のはけ口にするやり方が欧米に広がっている。選挙戦で重要課題がほぼ完全に無視されたことはメディアの責任が大きい。トランプの最も確かなことは彼が不確かだということだ。彼は神経の細い誇大妄想狂であり、彼がどのような行動に出るのか、本人も含め誰にもわからないという状況は非常に危険である。

・ISと中東問題

サウジアラビアのジハード・グループへの資金提供による極端なイスラムイデオロギーの促進、イラク侵攻によってもたらされた破壊とセクト戦争などが、ISが生まれる土壌を培うことになった。

・なぜ戦争をするのか?

戦争は偶発的事件の重なりから始まることがあれば、一国の指導者(例えばヒトラー)の攻撃性で始まることもある。核兵器時代になっても世界が存続し続けいていることは、ある意味奇跡的なことであり、このまま続くとは思えない。

日本の平和憲法は、完璧ではないにしろ、世界中が見習うべきものである。集団的自衛権の行使が可能になったことでそれが崩されていくのを見るのは残念としか言いようがない。

・テクノロジーの進歩と人類の未来

AIが人類の知能を超えるというアイディアは、今のところ完全なる夢であり、実現するコンセプトもその夢を支える根拠もない。ディープ・ラーニング膨大なデータとコンピュータの計算力に頼ったもので、実際の知能の働きとはかけ離れている。

第2章 シンギュラリティは本当に近いのか? レイ・カーツワイル

レイ・カーツワイルは発明家・未来学者・コンピュータ・エンジニア・実業家であり、2045年にはAIの能力が全く予測不可能な臨界地点に到達することを予測し、その地点を「シンギュラリティ」と名付けました。

・「シンギュラリティ」の背景

情報技術は指数関数的な成長をする。2029年にはコンピュータが全ての分野に置いて人間がすることを超えるようになる。このAIが手にはいれば、赤血球サイズのナノロボットによる免疫システムの補助で寿命を延長させたり、AIを直接脳に接続し究極的なVRの構築や思考の拡大を実現したりできるようになる。

・医療・エネルギー・環境問題の未来

医療ナノロボットのテクノロジーを通じて究極的には全ての病気は克服される。ソーラー・エネルギーが指数関数的に成長すれば20年もしないうちに必要とする全エネルギー太陽エネルギーで非常に安くまかなえるようになる。

・コンピュータによる知能の獲得

ディープ・ラーニングは適切な判断のために膨大なデータを必要とするため、AIの課題は「少ない情報から多くを学ぶこと」である。情報の入力を多層化することで高度な知能を実現できる。

・人類進化と幸福の意味

我々の思考は有機的な部分(脳)と無機的な部分(AI)から成り立つようになるが、やがて無機的な部分がそのほとんどを占めるようになる。この時、自己のバックアップを作ることができる。

第3章 グローバリゼーションと世界経済のゆくえ マーティン・ウルフ

「世界で最も信頼されている経済・金融ジャーナリスト」と多くの人が認めるマンーティン・ウルフはフィナンシャル・タイムズ紙の経済論説主幹を務めます。

・グローバリゼーションのゆくえ

現在がグローバリゼーションの停滞が内向きの姿勢へと結びつく転換点にある、という可能性は十分にある。グローバルな交易は問題もあるが、全体として世界に利益をもたらすものである。貧富の格差は適切な予防措置を取らなかったために生じた。

・日本の借金問題

日本政府の借金はほぼ全てを日本国民に負っているため、アルゼンチンやギリシャのケースとは異なる。日本政府は財政のバランスをとることも必要ではあるが、それにも増して、経済がうまく機能していくことを責任を持って最優先すべきである。法人税を引き上げ、企業の余剰資金を取り出して家計に移し、総需要をあげることが適切であると考える。

ブレグジットの影響とイギリスやEUの将来

ユーロ圏の失敗と東ヨーロッパからの移民が英国民のEUに対する不信感を高め離脱につながった。イギリスの今後についてはわからない。スイスのようになるかもしれないが誰にも予測できない。ブレグジットがスムーズに進みEUとイギリスの関係が良好保たれ世界経済への影響は限定的であるという可能性もあるし、ブレグジットがうまくいかずユーロ圏の分裂などを引き起こし世界経済に計り知れない打撃を与えるという可能性もないわけではない。

第4章 都市とライフスタイルのゆくえ ビャルケ・インゲルス

ビャルケ・インゲルスはデザイン性と実用性を両立した作品を生み出して数々の賞を受賞し、2005年にBIGを立ち上げてから11年間に世界貿易センタービル2、グーグル本社、ハイパーループ1など次々に大型プロジェクトを依頼されています。

・3Dプリンティングは大量生産型の建築にも建築材料として使用されるようになるのは間違いない。テクノロジーが飛躍的に発展すればテクノロジーの部分はますます短命に多様になっていって、現在の最新テクノロジーを取り入れれば入れるほど建築が実際に建つ3,4年先にはそれらのテクノロジーはすでに古いものになっている。建物自体はローテクになっていくと思われる。

 

第5章 気候変動モデル懐疑論 フリーマン・ダイソン

数学・理論物理学の分野に加え、他の様々な分野でも目覚ましい活躍を見せてきたフリーマン・ダイソンアインシュタインの真の後継者としてあまねく尊敬を受け、通説やドグマに惑わされず、様々な問題に対して常に独自の視点を提供してきました。

・気候変動の誤謬

炭素削減が地球を温暖化しているとして、その対策に血眼になって、森林伐採や野生動物の破壊など実際の被害が生じているところに使われるべき莫大な時間と資金が投入されてきたことは嘆かわしい。環境保全は熱心に支持するが、それが炭素燃焼という環境保護とは関係のない問題と混同されているのは不幸なことだ。

 

まとめ

『知の逆転』が興味深い本だったので、その姉妹本である本書を読んでみました。常識や周囲の情勢に流されず、事実を冷静に見つめ、本質を見定める5人の知性たちの人類の未来に対する見解を知ることができました。5人の意見は必ずしも一致しているわけではありません。AIが知性を獲得するというのは今の所ファンタジーでしかないと言うチョムスキーに対し、AIは知性を獲得しシンギュラリティを迎え、人類と融合すると語るカーツワイル。地球温暖化は人類存続に関わる大問題であるから炭素削減を含む対策を講じなければならないと主張するチョムスキーに対し、気候変動は極めて複雑なプロセスなので炭素削減に拘泥するのではなく実際に発生している環境問題に時間と資金を投入すべきだと述べるダイソン。彼らほどの知性でも異なる見解を持つに至るほど、現代の問題は予測不可能であるようです。

不可能と可能の境界を探る:『サイエンス・インポッシブル』

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『サイエンス・インポッシブル』NHK出版

著者:ミチオ・カク

 

現代物理学界代表する博士がSF世界は実現可能かを検証

タイムトラベル、テレポーテーション、超光速航行、…。『スター・トレック』や『透明人間』などのSF作品に登場する夢のテクノロジーが実現可能なのかをミチオ・カク博士がその非常に幅広く創造的な想像力で検証します。加えられる考察は、現代の最先端の物理学に基づいていることはもちろん、その領域を躊躇なく踏み越えて未知の物理学の立場からもなされています。博士はその聡明な頭脳で不可能と可能の境界線を見定めます。

 

本書の概要

不可能レベルⅠ

:現時点では不可能だが、既知の物理法則には反していないテクノロジーで、今世紀中に可能になるか、あるいは来世紀にいくらか形を変えて可能になるかもしれないもの

1.フォース・フィールド(シールド)

フォース・フィールドは『スター・トレック』のエンタープライズ号を敵の攻撃から守る目に見えないバリアです。現在の技術でこれを完全に実現することはできませんが、プラズマを電場や磁場で成形したプラズマウィンドウ、通るものを熱で蒸発させる高エネルギーレーザー光線のカーテン、透明でありながら鋼鉄より強靭なカーボンナノチューブの格子を組み合わせた多層シールドに光色性を付与できれば、粒子ビーム・大砲・レーザー光線を通さないシールドができます。

2.不可視化

ハリー・ポッター』でハリーは姿を見えなくできる透明マントを纏って深夜の校内を徘徊します。古くからのフィクションに登場するような三次元の不可視化は今のところ不可能ですが、内部で屈折率を連続的に変化させ光路を迂回させることで不可視となる「メタマテリアル」は、マイクロ波に対しては不可視化を実現しています。これを可視光及び三次元へと拡張できれば不可視化を実現できます。三次元ホログラムも有望な技術です。

3.フェイザーデス・スター

スター・トレック』のフェイザー(光線銃)や『スターウォーズ』のライトセーバーのようなレーザー兵器の実現を阻むのは、高エネルギーの携帯式動力装置が存在しないことです。

惑星を破壊できる月サイズの巨大兵器であるデス・スターのようなものを作るためには、核爆発や核融合のエネルギーをX線レーザーに集約する方法が考えられます。また、出来かけの巨大ブラックホールのようなものである「ガンマ線バースター」を操作し標的にジェットを向けるという方法もありますが、これは不可能レベルⅡに属するテクノロジーです。

4.テレポーテーション

量子テレポーテーションの技術で、光子・セシウム原子等のテレポーテーションに成功しています。また、量子的絡み合いを必要としないテレポーテーションの方式も提案されています。複雑な分子やウイルス・細胞のテレポーテーションは不可能レベルⅠ、人間などのテレポーテーションは不可能レベルⅡです。

このほか、テレパシー、念力、人工知能、地球外生命体とUFO、スターシップ、反宇宙と反物質についてその可能性を探ります。

 
不可能レベルⅡ

:物理世界に対する我々の理解の辺縁にかろうじて位置するようなテクノロジーで、仮に可能だとしても、実現するのは数千年から数百万年先のことかもしれないもの

11.光より速く

超光速航行によるワープはSFの定番です。一般相対性理論が存在を許す、空間を引き延ばす「アルクビエレ・ドライブ」や空間を引き裂く「ワームホール」は超光速を実現する可能性がありますが、莫大な量の負の質量や負のエネルギーが必要になります。我々がそれほどのエネルギーを扱うことができるようになるには数千年以上必要になるでしょうが、どちらもその存在を否定する物理法則はありません。

12.タイムトラベル

高速で移動することで未来へのタイムトラベルは可能で、実際に高速で地球を周回する人工衛星は未来へ"タイムトラベル"し続けていています。アインシュタインの方程式が何種類ものタイムマシンの可能性を許すことから、SFの領域にあった過去へのタイムトラベルが物理の領域へ引きずり出されました。過去へのタイムトラベルを禁じる物理法則はなく、幾つか考えられている方法の一つにワームホールを利用するものがあります。

13.並行宇宙

3種類の並行宇宙が議論されています。

①超空間、あるいは高次元:超弦理論は10次元の存在を必要とします。

マルチバース:物理定数が異なる無数の宇宙が存在しているという説です。

量子論的な並行宇宙: 量子力学の解釈問題から考えられる並行宇宙です。

 
不可能レベルⅢ

:既知の物理法則に反するテクノロジーで、もし可能であれば物理学に対する我々の理解が根本的に変わることになるもの

14.永久機関

永久機関は熱力学三法則に反します。永久機関が実現可能ならば熱力学三法則がまちがっていることになりますが、熱力学三法則は「系が対称性を持つならば結果的にそれは保存則となる」というネーターの定理に基づくものなので、その否定には現代の基礎物理学についての宇宙スケールでの理解を根本的に変えなければなりません。

15.予知能力

原因は結果に先行するという因果律は、ニュートン力学でも量子力学でも破ることは許されません。永久機関同様、予知能力もそれが存在するならば現代物理の見直しが必要になります。

 

宇宙はたった一つの電子である?

予知能力の可能性の検討の中で、時間を遡る電子について説明がなされます。僕はこのアイディアが本書の中で最も突飛で最も不可能であるように感じられたので取り上げます。

あらゆる粒子に反粒子が存在していることが知られています。電子も例外ではなく、反電子というものが存在しています。反電子は質量やスピンは電子と同じで電荷の符号が逆である粒子です。この電子と反電子が衝突すると対消滅を起こしてガンマ線が生じます。

大学院生だったリチャード・ファインマンディラック方程式で時間の方向を逆にしても、電子の電荷の符号を逆にすれば方程式は変わらないことに気づきます。すなわち、反電子は、時間を逆行する電子であると考えることができることに気がつきました。この見解で電子と反電子の対消滅を考えると、時間を順行していた電子がガンマ線を放出してUターンし、時間を逆行していると考えることができます。

そしてこの考え方を推し進めると、「この宇宙全体が、時間の中をジグザグに行き来するたった一つの電子からなるかもしれない」という結論にたどり着くことができます。ビッグバンの混沌の中で作られたたった一つの電子が、何兆年ものちに世界の終わりの大変動に遭遇しますが、そこでUターンして時間を遡りその過程でガンマ線を放出、そしてまたビッグバンの時まで戻り、再びUターンしてガンマ線を放出、この往復が何度も繰り返されているだけであり、21世紀の宇宙は、この電子の旅を時間的に切った断面にすぎないということです。この理論は、物理学において個々の電子を区別できないという不思議な事実を説明してくれます。

 

まとめ

「何が可能で何が不可能であるか」を根拠をもって語るには、科学のあらゆる分野に精通し、かつ卓越した想像力を有する必要があります。そういう意味でこのテーマを語るのに、ミチオ・カク氏は最高の人物だと思います。理論的に、情熱的に、そして何より楽観的に未来を語る筆致は、博士の特別講義を聞いているような臨場感を読者に与えてくれます。

神の存在という「仮説」を粉砕する:『神は妄想である』

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『神は妄想である』早川書房

著者:リチャード・ドーキンス

 

世界一有名な不可知論者が宗教を徹底的に攻撃する

9.11を始めとして、世界各地で宗教が背景にあるテロ・紛争が巻き起こる現代の世界情勢を憂慮して、『利己的な遺伝子』の著者として有名なドーキンスが、宗教に対してあらゆる方向から論理的かつ徹底的に鋭い批判を重ねます。神の存在という「仮説」を粉砕するため、そして世界中で宗教に対して密かに疑念を抱いている人に勇気を与えるためにドーキンスは宗教との最終決戦に挑みます。

 

本書の概要

本書は10章からなります。

 

第1章 すこぶる宗教的な不信心者

アインシュタインやホーキングを始めとする物理学者が使った神という言葉は比喩的ないし汎神論的ものであって理神論的・有神論的ものではないことを説明した上で、著者はそのような神とは異なる「超自然的な神」だけを妄想と呼んでいることを前置きします。

また、良心的徴兵忌避やムハンマドの風刺漫画掲載などの事例を取り上げ、人間社会においては宗教に対し、常軌を逸した過剰なまでの不相応な敬意が払われていることを指摘します。

第2章 神がいるという仮説

神仮説を次のように定義します。「宇宙と人間を含めてその内部にあるすべてのものを意識的に設計し、創造した超人間的、超自然的な知性が存在するという仮説」。そして、その代案として提唱される考え方が「何かを設計できるだけの十分な複雑さを備えたいかなる創造的な知性も、長期にわたる漸進的進化の単なる最終産物でしかない」というものであると主張します。

自らを無神論者に傾いた不可知論者とする著者は、神仮説は科学的な疑問で、それに対する不可知論はTAP(一時的不可知論)のカテゴリーに属するものであることを確認します。そして、ラッセルのティーポットや空飛ぶスパゲッティモンスターの例を挙げ、神仮説の蓋然性を50%とすることが誤りであると示します。

また、科学と宗教の非干渉関係を表すNOMA(重複することのない教導権)が宗教側の利益のためのものであり、神仮説を支持する証拠がない故に用いられることを指摘します。

第3章 神の存在を支持する論証

神学者たちが行ってきた神の存在の“論証”を紹介します。

無限退行に関わる論証、度合いからの論証、目的論的論証、存在論的論証、美を根拠にした論証、個人的な体験を基にした論証、聖書に基づく論証、崇拝される宗教的科学者を持ち出しての論証、パスカルの賭け、ベイズ流の論証、これらすべてが根拠を持たないものやそもそも論証になっていないものであることを示します。

第4章 ほとんど確実に神が存在しない理由

神学者が神の存在を論証するために用いる非蓋然性からの論証(目的論的論証と同じ)は、その意図に反して、ほとんど確実に神が存在しない理由を与えることを示します。生命の複雑さの説明に神による設計を持ち出すことはできず(神という、より複雑な存在の説明を必要とすることになる)、生命の起源に対する人間原理及び生命の進化に対する自然淘汰を想定するしかないと説明します。

第5章 宗教の起源

自然淘汰の及ぼすいかなる圧力がそもそも宗教への衝動を進化させたのかを問い、宗教の直接的利点、群淘汰、副産物としての宗教、ミームとしての宗教を考えます。著者は宗教を何かの副産物としてみなしており、「何か」の例として、「子供が周囲の大人の言うことに従うこと」を挙げます。これは人間社会において淘汰上の利益になると同時に奴隷のように騙される(すなわち宗教を持つ)ことにつながります。

ついで、誕生から消滅に至る完全な歴史が保持されているカーゴカルト(積荷信仰)を紹介しつつ、ミーム説が宗教という事例でうまく機能するか問います。

第6章 道徳の起源—なぜ私たちは善良なのか?

個人がお互いに対して「道徳的」であることに関するダーウィン主義に基づく理由を4つ挙げます。第一に遺伝的血縁によるもの、第二に互恵性によるもの、第三に気前よく親切であるという評判を獲得することによるもの、第四に気前良さによって得られる広告効果によるものです。すなわち、道徳の起源を宗教に求める必要はないと示します。

第7章 「よい」聖書と移り変わる「道徳に対する時代精神

宗教的な人々が道徳の拠り所とする旧約聖書新約聖書が極めて醜悪な内容を含むことを指摘した上で、聖書が道徳の起源になり得ないことを論証し、むしろ宗教が戦争の原因となっていることを示唆します。

また、どんな社会にもどことなく謎めいた見解の一致が存在し、それが数十年単位で変化することに対しツァイトガイスト(時代精神)という言葉を当てはめ、それが宗教を起源に持つことはないことを示します。

第8章 宗教のどこが悪いのか?なぜそんなに敵愾心を燃やすのか?

宗教上の原理主義が科学的な営為を積極的に堕落させるが故に著者はそれを敵視すると説明します。非原理主義的宗教は、子供に「疑うことのない無条件の信仰が美徳である」と教えることによって原理主義者にとって好都合な世界を作っているという意味で有害であるといいます。

また、宗教が同性愛や中絶に対する間違った主張の源泉となっていること、及びテロリズムの根本的な原因となっていることを主張します。

第9章 子供の虐待と宗教からの逃走

聖職者による子供への肉体的虐待もさることながら、子供の洗礼そして宗教的教育(例えば地獄を持ち出しての脅し)は精神的虐待であると訴えます。

さらに聖書を起源に持つ成句・詩句・常套句や宗教的儀礼といった文化的遺産との絆を失うことなく神への信仰を放棄することはできると主張します。

第10章 大いに必要とされる断絶?

宗教が人間生活において果たすと考えられてきた4つの主要な役割、すなわち説明、訓戒、慰め、霊感(インスピレーション)のうち、説明と訓戒において宗教が出る幕はないことはすでに説明されました。ここでは、宗教が提供してきた不合理で姑息な“慰め”の実態を再確認するとともに、科学が我々人間の非常に狭い世界を見る窓を劇的に広げてくれることを示します。

 

ほとんど確実に神が存在しない理由

本書の中心的テーマである、神がいるという仮説の否定を取り上げます。

創造論者の主張はこうです。「生物が備える構造は偶然ではありえないほどに複雑なものである。従って、これは神が設計したものである」。

この主張の第一文は正しい主張で、すべての人の共通了解事項です。問題はその後で、偶然ではありえない複雑さの説明に神を持ち出した瞬間、「では、神はどこから来たのか」という説明が必要となります。すなわち、複雑さが設計されたものだと考えると、その複雑さを上回る複雑さを備える存在(神)が必要になり、何の説明にもなっていない(無限の退行)ということです。

この説明に取って代わり、ありえなさという問題に対する今のところ唯一の有効な説明が自然淘汰による説明です。自然淘汰はありえなさを小さな断片に分割し、小さなありえなさを持つ出来事の累積として捉えることで、最終産物であるとんでもなくありえないものの存在を説明します。

自然淘汰が説明できないものに「還元不能な複雑さ」があります。これを持つとは「ある機能をもったひとまとまりのものが、それを構成する部品の一つでも取り去れば全体が機能しなくなること」を言い、仮に還元不能な複雑さを持つ構造が生物に見つかれば自然淘汰説は崩壊しますが、創造論者の努力むなしく現在のところ見つかっていないそうです。

 

まとめ

何億人もの人間を敵に回すことを覚悟した上で、自らの反迷信・反非合理主義の立場を貫き通すドーキンスの姿には、彼の科学者としての矜持を強く感じました。宗教を背景としたテロや紛争が顕在化し、宗教の実害が以前にもましてはっきりと姿を現し始めた現代だからこそ、一人でも多くの人間が宗教と決別する必要があると確信させられました。あらゆる方面から批判を加え、それに対するあらゆる反論・言い逃れまで想定しそれらに対する解答まで用意するという、宗教に対してわずかの逃げ場も与えないドーキンスの論の展開は、ある主張(本書では神がいるという仮説)に対してその主張を否定するということのお手本を示してくれているとも感じました。

この記事の分量からも察していただけると思いますが、本当に濃度が濃くたくさんのことを教えてくれるものであり、読書経験の中で出会った最も刺激的な本の一冊です。